4/18/2012

帰りたい場所

本日は晴天なり。
久々に喫茶でモーニングを頂いてきた。そこにテレビの取材がきていた。


最近思うことがある。
自分がどうありたいかが見えない。ただ漠然とした「帰りたい」という気持ちがあるだけなのだ。そこがどこであるのか一切の見当がつかずただ飄々として頭の中、どこかで浮遊し続けている。私は自分について一ヶ所にとどまることが不向きで放浪に向いた人間であると思う事が多々あるが、現在の私は「誰かのいるところ」を求め続けているように思うのだ。知り合いがいないと落ち着かないのだ。これは現状、自分のいる場所が暫しの間定まってしまったからだと推測をしている。定まったからにはそこを居心地の良い場所に変えなくては生きていけないという強迫観念的思い込みによって生じているのかもしれないし、実際に野放しでは何かしらの影響が見えるのかもしれない。それに現在の場所を自分は酷く憎んでいるし、気に入るなんて事態に陥る事は金輪際無いと思っている。いや、確信とも言っていい。そんな場所に釘打たれた自分の情けなさ故に本日説法を聞く事になった。

叔父は自分の気持ちを中々に理解してくれていると思った。これは歪曲的な感想なのかもしれないが、私を見下すような素振りが浅学非才の私めには見い出す事は出来なかった。今後の指針についての話をして頂いた。留まれと明に言う訳でもなく、提案として、自分が考えはしたが無意識のうちに却下していたものに似た針を渡してきたのだ。目から鱗言っても良い。自分は軽薄に否定をしたが、直ぐに切り落とされ、紙切れ同然の反論だと認識させられた。今後の一年を棒に振るのは変わらずだが、その切り捨て分の利用を考慮してある点は成長率を考えるのならば成る程圧倒的に良い。だが自分の幼稚さ故に一定期間の夢と銘を捨てきれずいる。我儘を通したとしてもその一年は埋め合わせが出来るように思うのだが銘で今後がどう変わるとも言えない現在からすれば、意地を張るのをやめた方が良いという考えも持ち合わせてはいるつもりだ。その上で私は夢を追いたいのだろうか、それとも単に人を見下げていたいだけなのだろうか。

確かな事は、私は望んでいたのだ。肯定の言葉を。


「入学おめでとう、祝いだ。誕生日祝いも忘れていたな。」
否定はしていない。確証は無くとも叔父の思っている事は少しだけ理解できるような気がする。僕は良くも悪くもいつもレールを飛び越えて生きてきたのだ。周りを驚かせる人間だと、そう思っているのだろう。

「楽しみにしてる」


封筒には諭吉が並んでいた。
僕はどこに帰るだろう。

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