5/18/2011

深呼吸

ふっと緩やかに息を吐く。
すうっと身体を駆け巡っていたものが鼻から抜けてゆき、徐々に身体が萎み肺の中が空になったような錯覚をした瞬間、また緩やかにを吸い始めた。
その時少し背の高い革靴のカツカツと耳を突くような音を発しながら制服を着た女の子が此方に微塵の興味も示さず横を抜けて行った。ヘッドフォンに聴覚を委ねて歩いて行ったその女の子の残した少し甘く透き通るような香りが僕の身体の中にするりと入り込み、身体中を縦横無尽に馳せるような、そんな感覚を、次には僕は確身体中を血が駆け巡る確かな感覚を覚えた。
一般的には女の子から薫するのはリンスやコンディショナーやらの残り香だとか、はたまた香水や制汗剤だとか言われているけれども僕は男から薫る事のない異性特有と言ってもいいその香りを甚く気に入ってしまっているのだ。
女の子が前から向かってくるのを認めると息を吐き、その湧き出す様な香りをまた大きく取り込む。それだけでその女の子がどのような人なのか、それがわかるような気がするのだ。
僕は学校から家に帰るまでの間そんな大きな呼吸を繰り返し、小さくも確かな快感を得る。そしてただそれだけのことで満足をする。
僕の家はターミナル駅からほど近いマンションの一室に陣取っていて、栄えている駅の近くという事で周りには夜になるとギラギラしたネオンのラブホテルが活気づくのだ。僕はそのラブホテルの間を縫う様に歩いて家に向わなければならないおかげで多くの女性たちとすれ違う。そのなかには行為後であろう汗の酸っぱさをアルコールの強い香水で覆った香りを発する人、精液が何処かに残っているのか妙に蛋白の香りがする人などなど実に様々な人の香りを咀嚼し堪能してきた。そのせいか最近では香水の大まかな種類や点けてからの時間までの判別がつく様になってきている。
僕自身は特定の女性の香りを独り占めしたり、前途のような施設に入る機会に恵まれていない為にこの様な行為に及んだのかもしれないが、僕はこれで満足なのだ。
そうして世間でホテル街と呼ばれるビル群に差し掛かった時、鼻先にポツリと水滴が落ちた。その時僕はコンクリートの匂いがいつもと違ってきていることに気づき、頬が緩んだ。「今日は回り道をしよう」そう思い僕は大通りに踵を向け、肩に掛かっていた鞄を漁って折りたたみ傘を取り出すと、左手にそれを持ち、曇天の街へ歩を進めた。


三題噺:雨、ラブホ、息

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