9/17/2011

立ち回り

立ち回りの上手い人が羨ましい。
世渡り上手とはよく言ったものですね。

周りとの有効的関係を長期に渡るよう築け、相手に合わせた話や顔ができる。
それ故の悩みもあるらしいのですが当事者でなければその辺りを熟慮はできないので置いておきます。(自分の芯が見つからないとかそう言った類が多めです)


僕の話をしましょう。
まず言わなくてもわかる人もいるでしょうが、上記のような行動が大嫌いでした。
理由は単に相手にいい顔していると相手がつけ上がって道徳だかの講釈を垂れるのが一向に気に入らなかったから。というのも、こういう行為をする機会が幼稚園や保育園、小学校といった施設だったのが元ですね。

故に、小学校時代のテストは常に100点にも関わらず3段階評価で3は数えるほどにしか見られませんでした。

ちなみに未だに道徳の授業は嫌いですね。正しいものを語られても正しさには触れなかったから、子供のなぜなにを満たしてくれなかったものですから。

そんなこんなで立ち回りを知らぬまま育ち中高でも評定は純粋なる成績以外で苦い思いをしました。

でも高校のはじめで立ち回りを知ろうと思って参加し、どっぷり嵌りかけたあの似非宗教的な団体には少し感謝してもいいかな。あそこはコミュニケーションについても少しは学べたし。


そして本題に戻ります。
僕の例からすれば立ち回りがうまい人は育つまでに「単なる人任せのイエスマン」「大人に信頼を寄せた温室育ち」もしくは「そのフリをできた幼き策士」であって、その経験から「相手の喜ぶ対応が分かる」人となっていると考えられます。

ここで少し否定的な筆の取り方をしましたが、これは斜に剣を構え続けてきた幼子の戯言だと思ってください。

イエスマンも経験で対応は分かりますし大人について回っていたなら尚更ですね。
実際幼少からそれらのフリをしてた人間がいたら自分という存在に疑問すら持っていて危うそうですよね…


いやほんと今からでも対応とか学べないものか…
やっぱ培ってきたものってでけえなぁ…

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